アイヌの少女、知里幸恵の文学とその生涯を通し人間の尊厳とは何か、個人の意思を尊重し、差別をなくして自分らしく生きられる社会の実現を、男女平等参画推進の視点で考える企画として実施しました。
参加者43人の前で、金崎講師は、知里幸恵銀のしずく記念館の誕生、知里幸恵はどんな人だったのか、知里幸恵をめぐる人々とその影響、記念館の果たす役割等の話しをしました。
アイヌとしての誇りと強い信念で差別や偏見に立ち向かい、アイヌ語を書き残すという大きな使命に向け、短い生涯を投げうったゆるぎない人物像が伝わってきます。
講演会資料より
【知里幸恵銀のしずく記念館について】
北海道、登別 アイヌ語で、ヌプル・ペツ(川水の色の濃い川)と呼ばれました。この地に生まれたアイヌの少女、知里幸恵(ちりゆきえ)の業績を紹介するとともに、幸恵をとおしてアイヌ文化を広く伝えていくことが、この記念館の役割です。
この記念館は、公費に一切頼ることなく、全国の皆様の善意で設立されました。2002年から始まった募金活動は、のべ2500名以上の思いを集め、2010年、秋、「知里幸恵
銀のしずく記念館」として実現しました。そしてこれからも、館の維持管理・運営費用は主に入館料、知里森舎会員会費、募金などが充てられます。
これまでの取り組みに室蘭民報社の「第4回室民まち・ひと活力大賞」や地方新聞46紙と共同通信による「第10回地域再生大賞優秀賞」をいただいています。
【知里幸恵とは】
知里幸恵は1903(明治36)年、この記念館のある現在の登別本町2丁目、ヌプルペッ(登別川)沿いで生まれ、幼少のころを過ごしました。
父高吉、母ナミは、知里と金成の出身のアイヌです。7歳のとき旭川に移り住み、19歳まで母ナミの姉、金成マツや、祖母モナシノウクと共に旭川で暮らしました。
幸恵は、アイヌで初めてアイヌの物語を文字化した『アイヌ神謡集』の著者として知られています。13篇のカムイユカラ(神謡)が収められているこの著作のアイヌ語表記と対訳、及び序文は高い評価を受けています。
1922(大正11)年5月、幸恵は上京しますが、心臓病のため、同年9月18日、19歳という短い生涯を閉じました。アイヌとしての民族意識と誇りをしっかりと持ち、アイヌ語を伝えるという使命を果たした幸恵は、没後、その著書と、そこにこめられた精神によってさまざまな人たちに感銘を与えて続けています。
【女学校時代の幸恵】
幸恵の旭川区立女子職業学校での生活はとても孤独で、アイヌがたった一人という孤立感は耐え難いものがあったようです。
【日記に込めたアイヌの誇りと信念 幸恵の「アイヌ宣言」】
幸恵が生きた20世紀初頭はアイヌ民族が置かれていた状況は決して明るいものではありませんでした。
幸恵は日記に「私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?!たとへ自分でシサムですと口で言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先ばかりでシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないという事もない。同じ人でないか。私はアイヌであったことを喜ぶ」と記しています。
【アイヌ神揺集への強い思い】
1922年の両親宛の手紙に「私にしか出来ないある大きな使命をあたへられてる事を痛切に感じました。それは愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた文芸を書き残すことです」と書いています。
【アイヌ神揺集のこれから】
2008年国会で「アイヌ民族を先住民族とする」ことが決議されました。しかし社会的無知による差別や偏見、歴史的に及ぼされた貧困などは、これらが制定され、決議されただけでは一挙に解決するというわけではありません。
2010年幸恵が夢にまで見たふるさとに、「知里幸恵
銀のしずく記念館」が多くの人たちの善意で設置されました。
参考文献
アイヌ神謡集序文
序
その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮祈っている事で御座います.
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.
アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.
大正十一年三月一日
知里幸惠
知里幸恵 略年表
1903年
6月8日、知里高吉、ナミの長女として登別に生まれる。
生後まもなく両親の意思で受洗する。
1907年
弟、高央が生まれる。
祖母モナシノウクと岡志別川沿いで二人暮らし。
1909年
弟、真志保が生まれる。
秋、旭川近文の日本聖公会で布教活動をする金成マツに預けられる。
祖母モナシノウクとの三人暮らし。
1910年
上川第三尋常小学校に入学。
9月、近文に上川第五尋常小学校が開校され移籍する。
11月、「近文休養館」の開校式が行われる。
マツはアイヌ女性に裁縫、読書等を教え、日曜学校も開く。
12月、幸恵は日曜学校のクリスマス会で「アイヌ讃美歌」を歌う。
1916年
尋常小学校を卒業。
北海道旭川高等女学校を受験し不合格となり、上川第三尋常高等小学校に入学。
1917年
旭川区立女子職業学校に110人中4番で合格。
1918年
夏、アイヌ語学、アイヌ文学研究の金田一京助がジョン・バチラーの紹介でマツ、
モナシノウクをたずねる。初めて会った金田一は幸恵の語学の才を見抜く。
二学期以降は学校を休みがちになる。
1920年
女子職業学校を卒業。気管支カタルを病む。
金田一は病気の幸恵にノートを送りユーカラなどのローマ字筆記をすすめる。
9月、豊栄尋常小学校開校10周年記念式典で祝辞を読む。
独自の表記法でカムイユカラなどの筆記を始める。
年末、初めて書いた神謡稿を金田一に送る。
1921年
4月、「アイヌ伝説集」ノートを金田一に送る。
9月、「アイヌ伝説集」其2、其3のノートを金田一に送る。
弟の真志保も加わり、マツ、モナシノウク、幸恵、真志保の4人暮らしとなる。
1922年
5月上京し金田一京助宅に寄寓。
8月、心臓病発病。上京後につけていた日記は7月末で終わる。
9月18日、幸恵、心臓麻痺で急逝。
1923年
8月、『アイヌ神謡集』が刊行される。
1926年
『アイヌ神謡集』再版が刊行される。
1961年
金成マツ、弟真志保、父高吉死去。
1970年
『アイヌ神謡集』補訂版が刊行される。
1971年
金田一京助死去。
1973年
幸恵の評伝・藤本英夫著『銀のしずく降る降る』が 刊行される。
1978年
『アイヌ神謡集』のエスペラント語訳が刊行される。
岩波文庫に『アイヌ神謡集』が収録される。※略年譜は、藤本英央編集協力『銀のしずく知里幸恵遺稿』
「神様に惜しまれた宝玉−知里幸恵略年譜」を参照
知里幸恵に影響を及ぼした周辺の人々
父 知里高吉
牧畜業・造園業に取り組み造園は登別の草分けてき存在。
母 ナミ
イギリス聖公会平取教会でバイブルウーマンとして働く。金田一京助氏の研究に協力
金成マツ
知里幸恵の伯母で育ての親。幸恵を7歳から引き取り19歳まで育てる。
幸恵没後ローマ字でのアイヌ語筆記に取り組む。
祖母 金成モナシノウク
ユカラクルとして幌別で知られていた。金田一京助に「私があった最後で最大のユカラクルと評された。幸恵が5,6歳のころ同居。
すぐ下の弟 知里高英
アイヌ語辞典刊行を目指す。金田一京助との交流。「アイヌ語叙事詩ユーカラ集」の脚注部分に協力した。
下の下の弟 知里真志保
北大教授となり著書にアイヌ語分類辞典等多数刊行
金田一京助
アイヌ言語学者。国語学者。知里幸恵の才能を見出し、「アイヌ神揺集」刊行に尽力。
知里真志保や金成マツとも親交を持ち、「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」「アイヌ叙事詩ユーカラ集」等多数刊行
講演の締めくくりに
人間が人間らしく生きることを、山田洋次監督の「男はつらいよ」から取り上げ、その思いを語っていただきました。
〜私の寅さん〜
喜劇の意味
悲しい出来事を涙ながらに訴えるのは易しい。
また、悲しいことを生真面目な顔で物語るのもそう難しいことではない。
しかし、悲しい事を笑いながら語るのは、とても困難なことである。
だが、この住み辛い世の中にあっては、笑い話の形を借りてしか伝えられない真実というものがある。この作品は、男の辛さを、男が男らしく、人間が人間らしく生きることが、この世にあっては如何に悲劇的な結末をたどらざるを得ないかということを、笑いながら物語ろうとするものである。
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